自分の自然な感情を受け入れて下さい
どうもー!感謝してます!
今回は、心理カウンセラー衛藤信之先生の動画
【大切な人が病気になったら・・・ その心がまえ】の文字起こしとなっております。上のリンクが動画となっております。
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youtube上に2023/06/14にアップロードしたものとなっているため、ブログにアップした季節が異なりますのでご了承くださいm(__)m
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人は愛した人を失ったり、失うかもしれない事態に遭遇すると、誰もがパニックになる。 後悔、自己否定、不安、怒り、が生まれます。でも、それは当然なのです。 それは僕は「愛の形」だと思います。 だから、そんな自分の自然な感情を受け入れて下さい。それが何よりです。
引用元:心理カウンセラー衛藤信之の動画【大切な人が病気になったら・・・ その心がまえ】説明欄より
この動画を見てほしい人
・いつかは来る別れに心構えができていない人
・いつかは来る別れに向き合いたい人
・別れが来た時にどんな気持ちで送るのかを知りたい人
・すぐに自分を責めてしまう人
これより衛藤先生の動画【大切な人が病気になったら・・・ その心がまえ】の文字起こしとなります
こんな風に対応してあげればよかったの「心残り」
さて今回は、皆さんの大切な人が病気になったり、死の宣告を受けた時にどのようにすればうろたえないで対処できるか。どのようにすればうまく自分が関わることができるかという話をしたいと思うんですね
皆さんの中にも過去にそういうことがあったかもしれないし、今後起こりうることが十分ありえますよね。その時にどういう考え方が必要かな?と思うんです。
僕は心理カウンセラーとしていろんな人たちが皆さんに言われるのが
「大切な人が亡くなった時に、もっとこうしてあげればよかった。」
「ああいうふうに対応してあげればよかった」
「こんなこともしてやればよかった」
皆さん「心残りがある」
皆さん共通して言われるんですね
心が残るわけですよね
だからずっとそのことで後悔するたとえばね、ここにも書きましたけど
《大切な人の病気や死の宣告を受けた時の考え方》 ・元気な時に旅行に連れて行ってあげればよかった ・あの時に施設に入れなければよかった ・もっと話を聴いてあげればよかった ・「ありがとう」を伝えないまま亡くなってしまった ・もっとペットを可愛がってあげればよかっetc… オロオロする、うろたえる | 後悔 虚脱 自己 否定 | 100点満点の介護、看病がある そこから減点する⇒自分を責める 多くの人が同じように訴える ↓ 完璧な関りなどない ・AIロボットではない人間だから オロオロしましょう |
癌の宣告を受けた時に、まだ初期段階だったから元気だったんで、もっと旅行に連れて行って楽しい思い出を作ってあげられたのに
あんな強烈な抗がん剤を薦めたからこそ、逆に死を早めちゃったんじゃないかなとか
もしくは、あのコロナ禍で施設に入れた方が安心だと思って施設に入ってもらったけど、やっぱり家族が流動するんでね
でもそれから面会ができなくなって、母の認知がすごく進んで
「施設に入れたこと私よかったんでしょうか?」
あれだけ愛してくれたお母さんをあれだけ認知を進めてしまったのは、私のせいじゃないでしょうか?
自分を責められる方とか多いんですね
「もっと母と会話をしておけばよかった」とか
それとか奥さんの「あなたちょっと」って言ったときに「仕事忙しいんだよ」って言って妻が亡くなった後に
なんでちゃんと話聴いてやれなかったんだろうって妻の残った映像を見るたびに涙が出て止まらないとか
やっぱり「ありがとう」って自分は言えてないんですよねって
妻はいつもキッチンで家族のために料理を作って一生懸命ニコニコ笑ってくれてたのに、いつか定年ぐらいなったら温泉でも行こうなって言ってたのに本当に大事だったのは、あの普通の日々にもっと「ありがとう」とか
逆に僕は妻が亡くなる時に「何も問題なかったよ」
「私は幸せだったよありがとう」って言われて、もう僕はうろたえて言葉も出なかったんです
自分が言うべきだったんですよねっていう声を聞かされたり
もしくはペットロスでペットが亡くなった後、もっとおいしいもの食べさせればよかったとか、あんな粗相したペットに怒ったけど、そんなことどうでもよかったのかもしれないっていう事を訴えられたり
皆さん誰もが
「こうすればよかった」
「ああすればよかった」って言われるんですね
「オロオロする」「うろたえる」それが「愛の形」
それはなぜか?っていうとおそらく僕は、100点満点の介護や看病もしくは治療、パーフェクトなものがどこか世界にあるんじゃないかな?と思って100点満点「自分がそこに行かないと意味がない」と思って
そうできなかった現実のうろたえた自分だとか
オロオロしてしまった自分とか
頭が真っ白になっちゃった自分を責めるんですね
でもいいですか?
誰もがそうやってカウンセラーの所に来て訴えるって事は
僕は「それが当たり前なんだ」と思うんですよね
もし不測の事態が来て見事にAIロボットのように対処にそつなくこなせるんだったら、それは立派かもしれないけれども、ちょっと冷たさもかんじますね
もちろんすごく冷静に対処できた人が冷たいっていうわけじゃなくて、やっぱり達観したり準備する時間もありますからね
でも往々にして誰もがやっぱり不測の事態が起きた時にうろたえるんだろうと思います
もし僕ががんの宣告受けた時に妻がやっぱりオロオロしてくれるのを見ながら
あぁ妻はそれだけ本当に愛してくれてたんだな
僕は「それも愛の形」だと思うんですよね
だからそう考えると人だからオロオロするし、頭真っ白になるし、何もだから亡くなった後ってやっぱり落ち込むんですよねそうやって
今頭真っ白で何も考えられない。今日は何のために生きてるのか
いや今後何のために生きるのがいいのか?
それはそうでしょう。
今まで愛情が向かってたものが突然いなくなる。ペットでも人間でもそうですけど
普通の生活が変わるっていうことだけでも、僕らはすごい過度なストレスを感じるんですね。それを愛情の対象が失うってことは、どんなものであれうろたえて当たり前。
それが僕からすれば「スタンダード」なんですよ
それを完璧にAIみたいにちゃんと対応できなかった自分を責めたら、ただひたすら減点法で
そうすると「自分は何をやってたの」って自分を責め続ける
それをもし亡くなった側の立場になったらそれを見てどう思うか
僕はこう思いますね
「ちょっと待って、うろたえてくれたり、オロオロしてくれたからすごい愛を感じたよ。それだけ大事だったんだよね」
って僕ならそういうのを微笑みながら旅立ってあとは残す人に
「いいかい?誰もが逝くところなんだから、あまり苦しみすぎてはいけない。いつか待ってるよね」って言って笑って旅立つぐらいな人間でありたいなって。まぁね思ってますね
どんな偉い人でもね「死にとうない!」って叫ぶこともあるわけですから、それはそれでいいと思うんですよね
だからそういう意味でどんな自分がうろたえても周りがうろたえても
「それがスタンダードなんだ」
子供から学ぶことの大切さ
ということは
今日の結論は
「どうやったら対処できるか」じゃなくて
「しっかりとうろたえて、そしてオロオロしてください」
「それが一つの愛の形じゃないですか」っていうことで自分を受容して欲しいんです。
そうすると、自分の周りの人がうろたえても責めないで済みますよね
だから自分がパーフェクトにできなかった事を自分を責めてる人は誰かにもパーフェクトを望むわけですよね
「いいんだよ。それで」
そう思って、そして大事な事は「自分がいなくなった後楽しんでおくれ」
「いや、衛藤先生。楽しめないです」ってわかります。
「どれぐらい落ち込んだらこれが抜けられますかね」
でもね僕はやっぱりそういう意味では、子供から学ぶことって多いと思うんですよね
「子ども?」って皆さん思われますよね
子どもってすごく彼らはすごいなと思うのは
僕は子どもが小さい時に「パパ行かないで(´;ω;`)」
すごい涙流されてもう引き離して
「ごめんね。行ってくるね」って言ってその後気がかりにになりますよね
「ダイジョウブだろうか?あの子は」
帰ってきた時に妻に「今日大丈夫だった?」って言ったら
「あぁ!楽しくその後もうケロッとしておもちゃで遊んでたよ」って聞いた時、その時はそれなりにショックだったと思うんですけど
今考えたら「そうだよね!それでいいんだよね!」って
だからそういう意味で、もし「自分は大事な人を失ったのに笑ってる」
今度自分を責めてしまってる人
「それでいいんじゃないですか?」
そうやっていつまでも泣き続けるっていうのは、あまり良くないと僕は思います。
インドの神話 ヤマとヤミー
たまたま聴いたお話ですけど、インドでね
ヤマとヤミーっていうね、まあ言えばアダムとイブみたいな聖書で言うと
最初の男性と女性
インドの神話にもいるんですね。ヤマとヤミーっていうね
そのヤマさんが亡くなった時に愛するヤミーはずっと泣き続けて
その時にインドの神話によると昼しかなかったんで、ずっと泣き続けるんですよね。ずっと苦しみます
そこで神様が可哀想に思って夜を作るんです
そうするとヤマが亡くなったのが昨日になりますよね。
そして一昨日になります。
そして一ヶ月になります。
そして一年になります。
そうやって徐々に徐々に日が越えることによって痛みが治まってくる。
だからそういう意味では、しっかり「区切る」ってことも僕は大事なことなんだなぁと思うんですよね
そしてきっと朝が来るように笑ってほしいなって
そして
「いつか待ってるよ」という気持ちで逝かれる人は逝くんじゃないかな?と思います。
まあ今日の結論としては
子どもからそうやってケロッと笑う事も学ぶ必要もあるし
うろたえる自分を受容して許す必要もあるし
またうろたえる人を「なんでちゃんとやってくれないの#」って自分がちゃんとやろうと思う人ほど、それを他人に求めすぎると今度は責めちゃうかもしれないですよね
AIじゃない。人間です。
落ち込みましょう
オロオロしましょう
そしてある時期が来たら子供から学んで笑って過ごせるアナタであられることを期待してます
今日もあなたがあなたのサポーターです
今日のお話の中で何か
皆さんに得る事があればなと思って
たくさんそういう人たちの相談を受けるんで、今日はそういうお話を撮りました
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またこういうお話を入れていきたいと思うんで、またチャンネル登録してください
そして周りの人に、ずっとそれで苦しみ続けている人がいたらどんどんそれをシェアしてあげてください
何か誰かの力になるかもしれません。
じゃあ今日はこのへんで、さようなら
さいごに
私も自分の父親が亡くなった時、妻のお義母さんが亡くなった時はオロオロして、もっと素直になって言う事を聴いてあげれば良かった
という後悔がありました。
だからこそ、いつか来る別れが来る前に「ありがとう」「ごめんね」「幸せだよ」感謝の言葉を生きている今を大事にして今を噛みしめて、旅立つその時までそれぞれの「愛の形」を伝えたいと思います
ここまで読んでくださったアナタは本当に優しい人です。ありがとうございますm(__)m
感謝してます
また来てくださいね